2022年7月、久しぶりの散歩は久しぶりの江戸城へ。
連日の暑さで、長時間の散歩は命の危険があるので、短めに。


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まずは地下鉄で大手町駅へ。
大手門まで一番近い出口までは、冷房の効いた地下道を進みます。それでも汗が。

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大手門前から北側の石垣。立派です。

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そしてこちらは南側
屏風折れの石垣が続いています。

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大手門の高麗門を抜けた先の枡形虎口ですね。
立派な櫓門が行く手を阻んでいます。大手門は城の顔、立派な巨石がこれでもかとつかわれています。
天下普請で石垣担当は伊達政宗ですね。櫓門は戦災で焼失した後の復元です。

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がありました。戦災で抄出した櫓門の上には明暦三年と刻まれた鯱が飾られていたそうです。
これはそのレプリカですかね。

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同心番所を過ぎたあたり。左に百人番所が見えます。
奥の石垣が中ノ門跡ですね。以前訪れたときはそこから富士見櫓のほうに向かいました。

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今回は手前を二の丸方面に進みます。

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二の丸から見た本丸の高石垣です。
ちょうど台所櫓跡の展望台の部分ですね。
石垣の角度がよくわかります。

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右手には二の丸が広がっています。この通路を進むと二の丸庭園ですね。庭園を楽しむ気温ではありません。写真真ん中に見える看板手前に小道が見えます。

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小道を進むとこんな感じ。昭和天皇発案の二の丸雑木林です。武蔵野の面影を残したいとのこと。
この暑い日には、木陰が気持ち良いです。

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小道の分かれ道、選択を間違えたのか、すぐに元の道に戻ってしまいました。
この坂は、汐見坂。家康が入ったころはここからも日比谷入江が見えたようで。
写真右奥にある梅林坂との間のこの石垣は、平成に入ってから調査・復元が行われて、きれいに積みなおされています。
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汐見坂から南を見たところ。
この堀は白鳥濠です。先ほどの台所櫓跡部分の石垣の折れがよくわかります。
この高石垣は、乱積み打ち込みハギ、家康時代に積まれた当時のままですね。梅林坂側と違います。

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かなり急な汐見坂を登りました。今はない塩見坂門を抜けると本丸です。
右奥に天守台の石垣が見えます。
このまま北の丸を目指すつもりだったのですが、大手門にあった案内掲示が気になり、少し大手門側に戻ります。

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ありました。江戸城天守復元模型の展示です。

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三代目寛永天守の復元模型です。家光の時代ですね。
家康が築いた慶長天守が一代目、秀忠元和天守が二代目です。
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江戸時代の絵図に書かれた天守。右は姫路城松本城天守との比較です。寛永天守でかい。

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江戸城の設計図(図面)が展示されていました。

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こちらには内部構造も書かれています。

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完成図。
小天守台から登る階段、となっていますが、小天守台は本丸地表面?
渡り廊下みたいにつながっているとばかり思っていました。

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本丸は今は芝生広場。奥に天守台が。

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天守台まで来ました。
これは、幻の四代目天守台です。寛永天守が明暦の大火で焼失した後、町人地、武家地の復興を優先して、江戸城再建開始は大火の一年後です。天守台は加賀前田家が担当ですね。天守台と南側の小天守台の石垣は10月に完成しています。しかし天守は築かれていません。保科正之が不要とした、と言われていますね。

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天守台北東の角です。
きれいな切り込みハギ。
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北桔橋門から出ます。
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平川濠と本丸の高石垣。この辺りは江戸城で一番高い石垣だそうで、18.5mあるそうです。
すぐ後ろが天守ですから。

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歩道橋で代官町通りを渡って北の丸側に向かいます。
この暑さ、階段はつらい。皇居ランナーの方々、水分補給は忘れずに。

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首都高速北の丸出口横のこの建物は、国立公文書館、本日の目的地です。

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現在、企画展「江戸城の事件簿」開催中です。
江戸城で起こった様々な事件を、公文書館所蔵の書物を通してみていくという企画。

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これは江戸城本丸西丸図かな。

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これは堀田正俊殺害事件についてのの記載ですね。
すらすらと読めるとかっこよいのですが。「はじめての方は三十日間利息ゼロ円」とか。
翻刻と比べてやっと「なるほど」ですね。
翻刻を見ると「今朝五時過於」に辰ノ下刻と追記されています。五時?貞享元年(1684年)の記事で五時という表現が使われていたことが意外。

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松の廊下刃傷事件についての柳営日次記の記事。
原本と翻刻の写真を撮ったはずが撮れてなかった。もっとも追記が多くて読めませんが。
あ、浅野内匠頭だ。大廊下、吉良も読めますね。

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こちらは徳川実記から。
細川さんが襲われた事件で、殿中で殺害されたとなるとお家断絶の危機となるところを、吉宗が「まだ生きている、粥を与えよ」といったことで事なきを得たとか。

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こちらは寛永以来刃傷記から田沼意知殺害事件
山城守は田沼意知ですね。

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これは、御書付留。幕府から各役職に発せられたお達しなどを書き留めたものだそうです。
慶応4年(1868年)の江戸城明け渡しにあたり、勅使から徳川方への書付を記録したもののようです。

企画展を見た後は、常設展示室を覗くことにします。

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重要文化財 吾妻鏡 です。
展示品は小田原北条氏黒田官兵衛に送り、その子長政徳川秀忠に献上した一冊です。
このページは、亀の前事件についての記載がされている部分ですね。
亀の前の文字は見つかりませんが、一行目末尾から北条殿室家牧御方密にと読めますね。
牧三郎宗親破却とかもわかります。これは寿永元年(1182年)なので、頼朝はまだ鎌倉殿ではなかったのでしょうか?鎌倉殿という文字は見えません。その代わり、武衛武衛とたくさん出てきています。

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こちらは大日本帝国憲法です。

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次のページには天皇の御名御璽、そして内閣の副署が続きます。
伊藤博文枢密院議長であり、内閣ではないのですが、勅語により列して署名しています。
文部大臣森有礼は憲法発布式当日に暗殺されていますが、署名には間に合ったようです。

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こちらは、日清講和条約日露講和条約です。

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こちらは二・二六事件の際の閣議書です。
大蔵大臣高橋是清は暗殺されたため、花押を記すことはできません。空欄です。

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終戦の詔書です。
朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ、です。

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そして、日本国憲法です。
これより口語体となります。

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御朱印の代わりに、クリアファイルを購入しました。
吾妻鏡が真ん中に見えます。

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もうすぐ12時です。地下鉄で帰宅することにします。

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国立公文書館の隣は、東京国立近代美術館です。

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ゲルハルト・リヒター展開催中でした。
近代美術はよくわかりません。

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竹橋を渡ると東京メトロ竹橋駅です。国立公文書館からは徒歩数分ですが、汗だくです。